ミュンヒェン一揆逆走
ストで日程が変更されたので、丸一日ミュンヒェンで空き時間ができました。雨模様でしたがその分気温が低くなったので久々に市内をそぞろ歩きました。
するとどうか。1996年に訪れて以来18年ぶりに党本部跡地へ向かいましたが、以前は党本部跡地と思い込んでいた場所が実は違っていた!(2014年現在)
ココは、国民社会主義犠牲者追悼広場で、党本部跡地ではなかった!拙著でも党本部跡地にたつ記念碑とか書いてしまってそのままでした。
もし重版されたら訂正します。
当時は党本部の場所もうろ覚えで、「ブリエンナーシュトラーセどこ?」
みたいに聞いてたどり着いたんでしたが、間違っていた!
まあ、ブリエンナーシュトラーセといっっても長いから。
ホントの党本部跡地はこちらだった。当時教えてくれた老婆は悪気はなかった。
警官に聞いても無視されていた朧げな東洋人に親切にしてくれたのである。
こちらのドイツ語がイカン。
まあ、警官も「パルタイアムトどこ?」とか「ブラウンハウスどこ?」とか
聞かれても嫌がるのは解る(今は)。
こちらはすぐ裏にある「総統府」ビル。Führerbau。
そしてこちらは「行政総監府」。Verwaltungsbau。
総統公邸と道路を挟んで対になっている。現在はミュンヒェン大学現代メディア学部が使っている。
当時の雰囲気にしばし浸ったのち、フェルトヘルンハレからビュルガーブロイケラーまでの道のりを1923年11月9日と同じコースで辿ることを決心。
歴史の追体験ができるかも。
ということで、またまたやってきましたフェルトヘルンハレ。
実は党本部跡地からブリエンナーシュトラーセをずんずん真直ぐくるとこのオデオン広場に突き当たるのです。
ここから、いまはなきビュルガーブロイケラーを目指して、1923年11月9日にPGらが進んだ道のりを逆コースで辿って行きます。
まずは向って左側のレジデンツシュトラーセに入ります。
レジデンツシュトラーセ。向って左がバイエルン王国時代の王宮(レジデンツ)なので、
この通りはレジデンツシュトラーセという訳です。これを真直ぐ進みます。
王宮を過ぎるとすぐにマックス・ヨーゼフ広場となります。
中央の像はバイエルン公マックス・ヨーゼフですので、
マックス・ヨーゼフ広場なのです。
広場からは何本か道が出ていますが、そのうち、レジデンツシュトラーセとペルーザシュトラーセの交差するところを進行方向に右折し
ペルーザシュトラーセに入ります。
この道はレジデンツシュトラーセの突き当たりT字路で左折するとマキシミリアンシュトラーセという名前になっています。
つながっていますが広場から名前が変わるのです。
マックス・ヨーゼフ広場でレジデンツシュトラーセを進行方向右に曲がり、ペルーザシュトラーセに入りました。
路面電車の線路もあります。左側にビヤホールもあります。
そのままペルーザシュトラーセ(実は短い)を進むと、テアティナーシュトラーセに突き当たります。路面電車の線路を進む感覚です。
ペルーザシュトラーセからテアティナーシュトラーセにかけてはブランド品のショップが続きます。
路面電車が来ないからといって歩行者天国ぢゃないよ・・。
この先はテアティナーシュトラーセの名前が変わりヴァインシュトラーセになります。
この緩やかなカーブを過ぎると、もうじき例の時計のある市庁舎で有名なマリエン広場です。
さて、テアティナーシュトラーセを進むとつい路面電車の軌道に沿ってしまいがちですが、ここは直進です。
正面に尖塔がいくつも連なって見えている建物を目指します。この建物の向こう側がかのマリエン広場です。
ちなみに、上の写真の路面電車軌道を進むとこの景色です。
こっちもなかなかドイツらしくて良いのですが、またの機会に!
尖塔の連なる建物に接近しております。この時は外壁工事中で足場が組まれております。
この建物に人形の出てくる時計台があります。
これが有名なミュンヒェン市役所です。既に道路名がヴァインシュトラーセに変わっております。
マリエン広場は大変有名な観光名所で、常に観光客でいっぱいです。
市役所のヴァインシュトラーセ沿いにはレストラン(旧市営ヴァインケラー)があります。
まあ、中庭ですが食事、ビール、ヴァインは当然です。それでヴァインシュトラーセに変わる、と。
人形時計のある側。地下鉄(U-Bahn)と市街高速鉄道(S-Bahn)の駅入り口(駅名マリエンプラッツ)。
ここがマリエン広場(Marien Platz)。正面にあるのはメルヘンチックな建物ですがこれは聖ペーター教会ではありません。
ペーター教会はさらに直進。それより、左側のまだら模様の建物『Ludwig Beck』です!
まあ、コスメ会社ルトヴィヒ・ベック・アクチエンゲゼルシャフトなんですが、
ここは当然に例の「元上級大将」「元参謀総長」を思い起こす必要が有ります。
ベック目指して突撃し、広場を横断しても良いですが、ここは当時と同じくマリエン広場周囲の道路を通る、
ということでヴァインシュトラーセ突き当たりに交差するカウフィンガーシュトラーセとローゼンシュトラーセ角にいたり、
カウフィンガーシュトラーセを行きます。有名百貨店カウフホフがありますのですぐわかります。
道のりはここまでで大体四分の一です。
肝心の人形の出てくる仕掛時計を忘れてました。
有名百貨店チェーン店Kaufhofの前を「LudwigBeck」方向へ。
オデオン広場を突っ切っても良いのですが、道なりに進みます。
先ほどのメルヒェンチックな建物が現れます。
向って右側に半分かくれているのがペータース教会です。
これがペータースキルヒェ(聖ペテロ教会、サンピエトロ聖堂と同じ意味でドイツ語なだけ)。
聖ペテロは初代ローマ教皇ですので、その名を冠した教会の入り口上部タンパンには教皇を示す三重冠が鍵とともについております。
鍵は二本有り、一方は天において一方は地において「解き繋ぐ」事ができる事を象徴として示しております。
この教会に教皇座があったのではありません。
ペータース教会を過ぎ、そのままカウフィンガーシュトラーセを進みます。すると右側に・・
レダーホーゼ専門店が。ビルの谷間に平屋でガツンと営業しております。
この店は19世紀からあるので、当然にナチ時代にも営業しておりました。
今は土産物やおぼろげな衣服も扱っておりますが、当時は要人もここで買っていたかも。
革パンツ屋ヴァグナーを過ぎましてカウフィンガーシュトラーセをまた進みます。
いよいよ、イザール門が見えてきました。
右側は現在アップルストアなんですが、当時はこの辺りに例のシュテンネッカーブロイがあったはずです。
左奥にトールブロイというビヤホール付きホテルがありますが、これは違います。
このイザール門で、おおむね距離としては半分ほどきました。
イザール門です。イザール川からはすこし離れていますが、川縁に建っていても関所の役割がこなせるとは限りません。
イザール門の建っているのはトーマス・ヴィンマー大環状線です。
ここを横断してイザール川にかかる二つの橋に由来するツヴァイブリュッケンシュトラーセを直進します。
大環状線は歩いて横断するのは危険ですので、地下鉄駅を使って反対側の出口戦略にて横断します。
ツヴァイブリュッケンシュトラーセに出ました。右手を直進です。
さらに進みます。
イザール川にかかるツヴァイブリュッケン目前でエアハルトシュトラーセを横断します。
横断して先はそのまま直進ですがルートヴィヒシュトラーセと名前が変わります。
橋を渡りつつ右手を見ると???ドイツ博物館です。
そして前方には最後の大カーブ、その手前に有名な「スクリュー」が!
落書きがイタい。ドイツ博物館を安っぽい秘宝館に変えかねない「遅れてきた青年」たちが「バーダー・マインホフ」気取りです。
「(相手を)傷つける言葉は、いつでも自分を傷つける」という、或る歌の歌詞を思い起こさせます。
「ドイツ零年」とかいってたわりには、その申し子どもがずいぶんとその理念を曲解していて、「さらに荒れ果てる40年」ですね。
違った意味でまるで反省はありませんが、いいがかりをつける人も居ません。
フェルトヘルンハレからビュルガーブロイケラー(1923年当時の一揆出発場所跡)を目指す旅もいよいよ目的地が近いようです。
ドイツ博物館の「スクリュー」を背にしてルートヴィヒシュトラーセの反対側を眺めつつ進みますと、雰囲気のある建物が。
フォルクスバート(公衆浴場)で、スーパー銭湯のはしりです。当然、今でも営業しており、ビアガーデンの看板も。
フォルクスバートを過ぎると、直ぐに巨大交差点に。大きくは、ルートヴィヒシュトラーセからみると二股になっております。
正面の巨大だが風格の無い戦後独特の朧げな建物は文化複合施設です。文化的に楽団本拠地も兼ねてます。
この建物(ガスタイヒ)の向って右側がローゼンハイマーシュトラーセで、これが最後の大通りです。
3車線の大きな通り。ローゼンハイマーシュトラーセです。左側にはガスタイヒがまだ続いています。
そして!いまはなきビュルガーブロイケラー跡地の一角にはやはりビヤホールが。
まあ、オフィスビルのテナントがレストランになっており、レーヴェンブロイの系列なんですわ。
ついに到着・・ここに当時ビュルガーブロイケラーがあったはずです。
「600人のSAが包囲」していたらしいですから、大変な騒ぎです。
ここシュタインシュトラーセとローゼンハイマーシュトラーセの交差点付近ですから、行進の起点は。
然し乍らこの付近には、1929年から1945年の面影は殆どありません。
建物もみな戦後に建造されたもので、外観は全然違います。
それでも、心ある人なら早くもゲニウス・ロキと化したあの夜の参加者、
民衆の潜在的エネルギーが辺りに立ちこめているのを理解できるでしょう。
翻って現在日本では
「大衆は尻の軽い女と同じである」「諸君、あの男の敗北を喜んでいる時ではない、だらしのない雌犬が早くも欲情しているぞ」、
このふたつのアレゴリーをわからず、当時のエネルギーを感じ取る事もできない上滑りの衒学者どもが、
危機感を「削除」されている国民から鬼の上前をはねているようですがね。