ナチ党組織試論
  ナチ党は政権獲得後ほどなくしてナチ党以外の政党を禁止・解散させてドイツ唯一の政党となったため、1933年12月1日「党と国家の統一法」を制定し た。これによりナチ党は国家であり国家はナチ党であると法的に決定された。そのため、副党首でもある総統代理(ヘス)とSA幕僚長(レーム)が帝国閣僚の 地位を得る事になった。
 また、ナチ党は国家でもあることから、党員に対する裁判権を持つ 事になった。ナチ党では指導者原理に基づき、指導者(ヒトラー)の命令は誤謬が有り得ず、全党員は無条件に完全服従するものとされた。従って専従ナチ党員 階級では指導者(Führer)と言う単語はヒトラー以外用いられない。すなわち高位からライヒスライター(Reichsleiter=全国指導者)、ガ ウライター(Gauleiter=大管区指導者)、クライスライター(Kreisleiter=管区指導者)、オルツグルッペンライター (Ortsgruppenleiter=地区指導者)、ツェレンライター(Zellenleiter=細胞指導者)、ブロックライター (Blockleiter=戸口指導者)という例である。
 逆にSS、SA、NSKKなどナチ党の下部組織内では各級組織自 体がナチ党本体を模倣しているため、指導者(Führer)と言う語尾を用いる。SS全国指導者(Reichsführer-SS=ライヒスフューラー SS)、SA大将(SA-Obergruppenfuhrer=SAオーバーグルッペンフューラー)、ナチス自動車団長(NSKK- Korpsführer=NSKKコーアフューラー)と言う例である。すなわちライターとは組織に対する支配権はもつが、組織を構成する個人には及ばな い。だから組織外の時間では支配権を行使出来ない。反対にフューラーは組織内の個人に対し直接、人格的にも支配権を及ぼす。従って勤務時間外であろうと個 人毎に生涯支配権を行使出来る。
 ナチスドイツ政権下で大統領職は空位、ウ゛ァイマール憲法は停止 され、新たに総統兼帝国首相(Der Führer und Reichskanzler=ヒトラー)が党と国家の最高裁治者を兼任することになった。従って、理論的には全公務員はナチ党員で無ければならないとして 先ずユダヤ人を公務員から排除すべく職業官吏再建法を制定した。それと平行して均整化(グライヒシャルトゥンク)とよばれるナチス化を国家の全てのレベル で進行させた。もっともこれらは、最後まで完全には達成されず、党と国家の一体化も出来損ないのままであった。
 それゆえ、あらゆるレベルの官僚組織にはナチ党員と非ナチ党員が 混然とし続け、全国民約7000万人中ナチ党員は約900万人に過ぎず、全てをナチ党員で埋め尽くすのは不可能であった。それでもナチ党員としてのランク と公務員としてのランクを整合させる努力は不断に続けられ、最優先された治安機関ではSSの介入により一体化がかなり達成されたが、他の官庁・機関では トップや各レベルのライン職の長がナチ党員にすげ替えられるにとどまった場合が多い。ただし、非ナチ党員であってもかなりの者が公務員としてナチ党政府の 意向を忠実に反映した。
 1934年には国家組織再建法が制定され、地方分権が強固で従来 各州にあった政治権力を中央政府に集中させた。各州には帝国地方長官が派遣され、多くがナチ党大管区指導者の兼任であった。すなわち、外見上は各地方にお いて国家を代表する者と党を代表する者が一体化したのである。だが実際には各州政府は残存して日々の業務を継続して遂行しており、その州官僚組織も中央と 同様ナチ党員と非ナチ党員が混在したが、かなりの者がナチ党員である上司・同僚と緊密に協力した。これは市町村レベルでも同様である。
 ナチ党では個人に対してヒトラーが直接、担当させる案件を決めて それに付随する権限を与える場合が多い。また、隣接する職務領域を複数の者に担当させ、結果としてそれぞれの担当者が競争する様な場合も多い。同様に、個 人に複数の職務領域を担当させる場合も多いが、その際は担当する職務毎にそれぞれの事務局(官庁)を設けるため、隣接する職務領域の場合、それぞれの事務 局同士が一人のトップのもとで競争する事になる。いずれの場合も、ヒトラーが具体的な指示を与える場合は少なく、朧げな目標や職務を伝えて細部の実施に関 しては現場に任せると言う形式である。このことはある場合は現場でのサボタージュに繋がり、ある場合は現場での行き過ぎに繋がる。例えば、パルチザンを 500人殺害したが押収した武器が拳銃10丁、という報告がある場合は明らかに水増しした現場サボタージュが疑われる。また大学の入学定員中ユダヤ人を 10%にすべしという命令に対し、いきなり全ユダヤ人学生を退学にした、と言う場合は明らかに現場での行き過ぎである。しかしながら全体としてはナチ党政 権の目指す方向は殆ど阻害されず進行した事は驚くべきである。なぜなら、いずれはパルチザンもユダヤ人も排除することになるからである。このような視点か らナチス体制下の組織を検討してみる。

その1「RSHA」
国家保安本部 (Reichssicherheitshaupuamt、以下RSHA)は1939年9月27日に設立されたナチスドイツ体制の治安情報機関である。ま た、ヒムラーの悲願であるSSと警察の一体化を示すものでもある。それは、本来の国家機関である保安警察(ゲスターポとクリポ)と本来のSS(党)機関で あるSD(SS保安部)を融合したものだからである。ゲスターポは国家警察であり秘密事項案件を扱える政治警察で、クリポは国家警察であり秘密事項に属さ ない案件を扱う刑事警察である。初代RSHA長官は、すでに保安警察長官とSD部長を兼任し「保安警察およびSD長官(Chef Sicherheitspolizei und des SD=CSSD)」と呼称していたラインハルト・ハイドリヒSS中将兼警察中将である。実質的にCSSDはRSHA長官と同じ機能であるのに、何故 RSHAを設立したのか。それは保安警察を完全にSS融合させるためであった。保安警察はそれまで形式的には内務省の下にある警察の一つであった。内務大 臣はウ゛ィルヘルム・フリック博士でナチ党ライヒスライターであるが、SS隊員ではない。また、SS全国指導者であるヒムラーはナチ党ライヒスライターと してはフリックと同格だが、帝国閣僚ではない。帝国内務次官兼ドイツ警察長官としてフリックの部下である。ハイドリヒはさらにそのヒムラーの部下である。 内務省のもう一つの警察である秩序警察もすでにクルト・ダリューゲSS大将兼警察大将が長官に就任していたが、こちらは人数が多過ぎるうえ、政治警察でも 刑事警察でもないので後回しになったのである。つまりヒムラーはRSHAを内務省と同等の帝国官庁にしたかった訳であり、その帝国官庁をSSのもとにおこ うと目論んでいたのである。帝国官庁を指揮下にもつ組織とは国家そのものだが、ヒムラーはSSを国家と一体化するつもりだったのだ。この上なく壮大な計画 だが、その最大目的であるSSと国家の一体化は結局完成しなかった。なぜならナチスドイツ自体が1000年続かず12年で終わってしまい時間切れだった し、それ以前にヒムラー自身が内務大臣に昇格してRSHAを内務省と同等にする必要がなくなってしまったからだった。そしてハイドリヒが1942年に暗殺 された後、ヒムラー自身がRSHA長官を務め、1943年にエルンスト・カルテンブルンナーSS大将兼警察大将がRSHA長官となった。すでに帝国官庁と なる必要がなかったRSHAはカルテンブルンナー長官が相変わらずCSSDと名乗りつづけていたのである。
その2「ORG.TODT」
トット機関(OrganisationTodt)は、戦争遂行にかかわる国策 での建設事業を担当するため1938年に設立された国家機関である。最高指導者はフリッツ・トット博士で、すでに1933年からドイツ道路建設総監として 主にアウトバーン建設に全権があったため、その任務を拡大する形で成立した。トット機関は彼の名前にちなんで命名され、主にRAD(帝国労働奉仕団)から 移籍した約35万人が所属していた。トット博士は1922年からの古参ナチ党員でありSA大将でもあったが、トット機関は国防軍関係の建設事業も全て担当 し、陸軍工兵部隊をも動員する事が出来た。そのため、トット博士は陸軍少将の階級も兼任した。1940年にトット博士は帝国軍需大臣に任命され、ここに戦 争遂行に関わる物資生産・建設はトット博士が全権を持つ事になった。それはRAD、4か年計画庁、国防軍軍備局、陸軍兵器局、工兵総監部、SS経済・管理 本部、帝国大蔵省、ドイツ労働戦線など既存の諸官庁との軋轢を生じさせるように見えたが、トット博士はヒトラーの個人的信任と各官庁トップとの個人的繋が りによってそれを回避し、トット機関はきわめて独立色の強い能率的な独立官庁となったが政策立案は出来ず、政策遂行官庁であった。1942年2月にトット 博士が飛行機事故で死亡したため、後任にはアルベルト・シュペーア博士が就任し、トット機関長官、帝国軍需大臣、ドイツ道路建設総監等の役職および権限を 継承した。シュペーア長官もまた、ヒトラーの個人的信任と他官庁首脳との良好な関係をもち、さらには国防軍全体の物流を担うシュペーア輸送団長も兼任して いたため、事実上戦争遂行に関しては最高権力者となったが、トット機関は最後まで政策遂行官庁(他で決定した建設計画を実行するのみ)にとどまった。